第二十回 かながわむかし歩き

 

展示にあたって

  現在、日本の各地で開発や区画整理によって古い地名が消えて新しい地名が生まれている。特に都市においては顕著である。 このような時、昔の神奈川を古い書物に記されている地名をたよりに、歩いてみることもおもしろいだろう。
 むかし相模国とよばれた神奈川県には有名な名所旧跡が多く存し、鎌倉、江ノ島は誰もが知っている観光地であり古い時代にも知られた名所であった。
 この度の展示は古書の中にある神奈川の地名をもとに資料を選んだ。展示された資料を通して、むかしの神奈川を散歩し、当時を垣間見ていただけたら幸いである。

 

1.日本輿地細囲

 

日本路程仝図(No.3参照)の原画をもとに屏風にしたもの。
 

2.内国道中記

 

明治11年に銅版で出版され、全国の主な地名と距離をしめしたもの。
 

3.日本路程全図

 

長久保赤水原図(1717−1801)
 江戸中期の水戸藩の地理学者である長久保赤水の原図を、嘉永5年
(1852)に刊行したもの。すでに緯度が用いられている。

 

4.諸国名義考

 

斎藤彦麻呂著(1859年没)
 諸国の名を古書(相模は和名抄)より考証し、例などをあげて解釈
説明をしたもの。
 

5.兵要日本地理小誌

 

 本書は明治10年(1877)に銅版で出版されたもので、日本全国の地
理、気候、風俗、歴史などが述べられている。
 「相模誌」として神奈川県の記述がある。
 

6.東海道中山道道中記

 

 上・下2段にわけ東海道と中山道の名所旧跡、神社仏閣の案内と各
駅間の里程と駄馬による運賃を記したもの。
 

7.東海道往来

 

 江戸日本橋より京都にいたるまでの、東海道五十三次の駅名を七五
調・韻文体で詠みこんだもの。
 

―川崎―

8.東海道中膝栗毛

 

十返舎一九著(1765−1831)
 『・・・それより六郷の渉をこへて、万年屋にて支度せんと、
  腰をかける。・・・』
 六郷の渉とは、現在の六郷橋よりやや下流にあった東海道の渡しで
ここを超えて川崎の宿に入った。
 弥次・喜多が、有名な万年屋で掛軸の「鯉の滝のぼり」を「鮒が素
麺を食ってる図」などと無駄口を叩きながら、名物の奈良茶飯をさら
さらと食べおわり二人が出てくるという昼食時の場面である。
 

9.東海道五十三次 川崎

 

歌川広重筆(1858没)
 初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻
 

―橘―

10.万葉集 巻二十・橘樹郡上丁物部真根 複製

 

 『家ろには葦火焚けども住よけを筑紫に到りて恋しけもはも』
 橘は、川崎市、横浜市にわたる地域で、むかし、武蔵国橘樹郡のあ
ったところである。この歌は防人歌で、これから筑紫の地に旅立つ作
者が、わが家は葦火を焚いて煤けるに任せている粗末さであっても住
みよいのに、遠い筑紫の地に行ってからは、きっとわが家が恋しくな
るだろうな、と故郷を思う心をうたったもの。
 

―神奈川―

11.東海道五十三次 神奈川

 

 初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻
 

―横浜―

12.御開港横浜之全図

 

 安政6年(1859)頃の横浜港を子安の方から眺めた図である。
 

13.横浜海岸通之図

 

「御開港横浜之全図」の異人波止場と日本波止場を拡大した図で、
江戸中期〜明治初期に画かれたものである。
 

14.横浜開港見聞誌 

 

橋本玉蘭斎編・画(1807年生・没年不詳)  
 文久2年(1862)頃に刊行されたもので、当時の横浜の異人の
様子が特にくわしく画かれている。
 

15.横浜繁盛記 

 

錦渓老人著
 

―戸塚―

16.東海道名所図会 巻六 複製

 

秋里籬島著(1830年頃没)
 『・・・程谷まで弐里九町、鎌倉繁花の時は材木町なり。此駅より海
道筋大略南北なり。北の方をもって江戸に当る。宿中北の町端れに吉田
橋といふあり。江島鎌倉道なり。鶴岡へ弐里、長谷観音へ弐里半。』
 東海道名所図会は、京都三条大橋より江戸日本橋に至る街通の地誌
で、宿駅五十三次の他、沿道の数里内の名勝古跡などもふれている。
 戸塚は、銀倉時代には材木町であったことや、北の町はずれにある
吉田橋が江島鎌倉道の出発点となることなどが記されている。
 

17.五十三次名所図会 戸塚

 

広重筆 安政2年(1855)刊
 

18.東海道五十三次 戸塚

 

初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻
 

―保土ヶ谷―

19.東海道五十三次 保土ヶ谷

 

初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻

―走水―

20.古事記 中巻 複製

 

 『其れより入り幸でまして、走水の海を渡りたまひし時、其の渡の神
浪を興して、船を廻らして得進み渡りたまはざりき・・・』
 走水は、三浦半島の東端、観音崎の近くの海岸。日本武尊が、東征
の途中ここから対岸の上総国に渡ったと伝えられ、その時の出来事が
『古事記』に記されている。武尊が海を渡ろうとした時、海の神が波
を立てたので船は進むことが出来ず、そのため后の弟橘姫が武尊の身
代りとなって海に飛び込んだところ、波も静まって船を進めることが
出来たという。丘の上の走水神社には日本武尊・弟橘姫がまつられて
いる。
 

―鎌倉―

21.沢庵和尚鎌倉記

 

沢庵宗彭著(1573−1645)
 沢庵和尚が二人の伴を連れて、鎌倉を順礼見物したときの記録。挿
画が面白く当時の様子がうかがえる。
 

22.順礼物語

 

三浦浄心著(1565−1644)
 京都、奈良、高野、西国、奥州などの諸国の見聞を記したもので、
「錬倉の名所、和歌の事」として、江戸初期の鎌倉の様子がうかがう
ことができる。
 

23.新編鎌倉志

 

河井恒久著
 鎌倉の詳細な地誌で、鶴岡八幡官を中心として1日の行程を計り、
一冊ごとにまとめたもの。水戸相公徳川光圀が河井恒久らに編集させ 
たもの。
 

24.続古今集 マイクロ版

 

 『宮柱ふとしき立ててよろづ代に今ぞさかえむ鎌くらの里』   
 鎌倉幕府、三代将軍源実朝の歌。鶴岡八幡宮の太い柱が末永く残る
とともに、鎌倉の里も今や益々栄えようとしているという意味。
 

25.東関紀行

 

 『抑鎌倉の始を申せば、右大将家と聞え給ふ、水の尾のみかどの九の
の世のはつえ武人にうけたり。』
 鎌倉遊覧の章中にでてくる文で、鎌倉は清和天皇の血をひく源瀬朝
が将軍となり幕府を置いた所だという紹介文。
 『東関紀行』の作者については諸説があり、鴨長明、源光行、源親
行などが挙げられているが不詳である。
 

26.平家物語 巻五・早馬

 

 『畠山五百余騎でみかたをつかまつり、三うらの大介が子共、三百余
騎で源氏かたをして、由井・こつぼの浦でせめたたかふ。はたけ山いく
さにまけてむさしの国へ引しりぞく。』
 桓武天皇以来三百八十年間都であった平安京から治承4年(1180)6
月に強引に福原へ遷都を挙行した平清盛の一層の横暴ぶりが顕著にな
っていく中、その三ヶ月後相模国の住人大庭三郎景親より源頼朝謀反
の急使を受ける。
 由井は「由比」とも書き、この戦いの後源義仲の挙兵、富士川の戦
・・・と、反平氏感情は高揚し、壇の浦の戦で敗れる平家の栄枯盛衰
を描いた『平家物語』の中、由比ヶ浜がでてくる場面である。
 

27.義経記 巻六・忠信が首鎌倉へ下る事 複製

 

 『後代の例に首をば懸けよ(後世の話の種に首を晒せ)とて、掘弥太
郎承りて、座敷より立ちて、由井の浜八幡の鳥居の東にぞ懸ける。』
 文治元年(1185)、梶原景時の讒音を信じた頼朝は義経の弁解をも無
視するばかりか兵をさしむけた。義経は忠臣佐藤四郎兵衛忠信と共に
吉野の山中に逃げる。忠信は主君の鎧を着て身代わりとなり、義経は
危うく難を免れる。忠信は追撃を振り切り都に入り愛人のもとに身を
隠すが、密告により再び囲まれ壮烈な死を遂げる。
 忠信の首は、鎌倉に送られ由比の浜の八幡宮(鶴岡八幡宮)にさら
されたという。
 

28. 平家物語 巻八・征夷将軍院宣

 

 『八幡はつるか岡に立せ給ふ。地けい石清水にたがはず。くはいらう
あり・・・』
 源頼朝が、その武勇により征夷将軍の院宣を鶴岡八幡宮で受ける場
面。鶴岡八幡宮は源義家が氏神の京都石清水八幡宮を由比ヶ浜字鶴ヶ
岡に祀ったのが始まり。後に頼朝が現在の鎌倉市雪ノ下に移したが、
そのまま旧称を用いて鶴岡八幡宮とした。
 

29. 夫木和歌抄

 

 藤原長清撰・編(鎌倉期の歌人・生没年不詳)
 『むかしにも立ちこそまされ民の戸のけふりにきはふかまくらのさと』    
 上つ代の昔にも増して、今鎌倉は民の家々にけぶりが立らのぼって
豊かな里になっているよと、藤原基政が詠んだ歌。
 

30. 金塊和歌隻

 

源実朝著(1192−1219)
 『つるかおかあふぎてみれは岑の松こすえはるかに雪ぞ積れる。』
 『金塊和歌集』は源実朝の歌集。金塊集の金は鎌倉の鎌の偏をとっ
たもの、塊は大臣を意味するので、鎌倉右大臣家集ともいう。実朝は
箱根以西に足を伸ばしたことがなかったが、三浦三崎や箱根・伊豆山
の二所権現参詣など県内の旅で接する風物が、彼に珠玉の歌を生ませ
る機縁のひとつであったことは疑がない。
 

31. 万葉集 巻十四・東歌 複製

 

 『ま愛しみさ寝に吾は行く鎌倉の美奈の瀬河に潮満つらむか』    
 美奈の瀬川は今の稲瀬川で、長谷を流れ由比ヶ浜に注ぐ。川の向こ
うの恋人の元に行くのに、満ち潮で河口が渡れなくなり、上流までま
わり道しなければならないのではないか、と案じて詠んだ歌。
 

32. 夫木和歌抄

 

藤原長清撰・編(鎌倉期の歌人・生没年不詳)
 『東路やみなのせ川にみつ潮のひるまもしらぬ五月雨の頃』    
『夫木和歌抄』収載の藤原実定の歌。実定は平安後期の歌人で才学
に富み虚実取り混ぜた逸話が多い。家集に『林下集』がある。
『夫木和歌抄』は、廷慶3年(1310)頃成立の私撰集で、撰者
は冷泉為相の門弟藤原長清。代々の勅撰集や私家集に未収の17,350余
首を採録、部類したもの。
 

33. 夫木和歌抄

 

藤原長清撰・編
 『さしのぼるみなのせ川の夕塩にみなとの月の影そちかつく』   
 『夫木和歌抄』収載の冷泉為相の歌。冷泉為相は藤原為家の子、母
は阿仏尼。冷泉家の祖。阿仏尼の訴訟に関してしばしば関東に下向し
滞在。遂には鎌倉を本拠として活躍するようになった。
 

34.十六夜日記 東の日記

 

阿仏尼(1222頃−1283)
 『あつまにて住所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風
いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかに、すごくて、波の音、松
風たえず』
 この文は、『十六夜日記』中、東の日記冒頭のもの。領地訴訟で鎌
倉滞在中の住まいがあった地、鎌倉西部の極楽寺から七里ヶ浜へ出る
谷間の梯子を記したものである。
 

35.万葉集 巻十四・東歌 複製

 

 『鎌倉の見越の崎の石崩の君が悔ゆべき心は持たじ』
 見越の崎は、相模湾に面した稲村が崎の古名といわれる。もう少し
西の江の島に近い腰越であるとする説もある。鎌倉に出入りする旅人
の多くはこの道を通ったのであり、「鎌倉四境」の一つに数えられた
要害の地であった。
 作者は、「石崩(く)えの」までを「悔(く)ゆ」の類似音のくり
かえしの序とし、鎌倉の見越の崎の石崩えの崩えではないが、貴方が
後悔なさるような不実な心を私は決して持ってはいませんよ、とうた
っている。
 

36.太平記 巻十・稲村崎干潟に成る事

 

 『前々(さきざき)更二干ル事モ無カリケル稲村崎俄ニ二十余町干上
テ、平沙渺々(へいしゃびょうびょう)タリ。』
 元弘の乱(1331)以後、南北朝の戦乱を記載した合戦記、『太平記』
全四十巻中の一部。14世紀後半に成立したと推定される。
 新田義貞が鎌倉を攻めた時、黄金作りの太刀を海に投じて海神に祈
ると潮がひき、「鎌倉四境」といわれるこの要害を無事通過すること
が由出来た、と伝えられる。
 

37.平家物語 巻十一・腰越

 

 『かねあらいさわにせきすゑて、大臣殿父子請取り奉つて、それより
判官をはこしごえへ追返さる。はうくはんなくなく一つうの状を書て』
 平家追討の功労者源義経は、兄頼朝に憎まれて鎌倉入りを拒まれた
腰越の満腹寺は、義経が大江広元にあてて身の潔白を申し開き、頼朝
の誤解をとくことを頼み込んだ「腰越状」を書いたところとされる。
 

―藤沢―

38.東海道名所記 複製

 

浅井了意著(1612−1692未詳)
 『藤沢より平塚へ三里十六町。宿の入口を道場坂といふ。道の右の方
に遊行上人の本寺あり。』
 藤沢は東海道五十三次の宿場町で東端は旧東海道に面している。
遊行寺(清浄光寺)は一遍上人開山の寺で時宗の総本山であり、「藤
沢の道場」ともいう。
 江戸より京都・宇治に至るまでの道中記の一部であり、義経・弁慶
の首塚の紹介までもしている。
 

39.五十三次名所図会 藤沢

 

広重筆 安政2年(1855)刊
 

40.東海道五十三次 藤沢

 

初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻
 

―江の島―

41.謡曲「江の島」 刊本

 

 『不思議の奇瑞様々あつて、海上に一つ島涌出す。即ち江野になぞら
えてこれを江野島と号す。』
「江の島」は欽明天皇(509−571)の時代に涌出し、その守護神弁才
天女が当時暴威を奮っていた五頭龍王と契りを結び、心を和らげた結
果、国土守護の善神となり龍口の明神(現在の龍口寺)と崇められる
ようになったという『江の島縁起』による。
 

―大山―

42.万葉集 巻十四・東歌 複製

 

 『相模嶺の小峯見かくし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣く』
 「相模嶺」は、賀茂真淵『万葉考』で「今大山として雨降神社の在
山をいふベし」として以来定説となっている。「東歌」は主として東
国地方の名もない庶民の素朴で率直な民謡的色彩の濃いものである。
 この歌も例外ではなく、いよいよ故郷の山を後にして、西国へ向か
っていく作者の悲嘆が如実に表現されている。
 この歌を刻んだ歌碑が本学3号館横に建っている。
 

―平塚―

43.五十三次名所国会 平塚

 

広重筆 安政2年(1855)刊
 

44.東海道五十三次 平塚

 

初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻

―大磯―

45.更級日記

 

菅原孝標女著(1800−没年未詳)
 『もろこしがはらといふ所も、すなこのいみじうしろきを二三日ゆく。
なつは・・・』
 諸越原(もろこしが原)ほ神奈川県大磯町の海岸から西こかけての
原をいう。この付近は古く高麗村という地名があったが、高麗からの
帰化人の住んでいた土地と伝えられている。
 

46.夫木和歌抄

 

藤原長清撰・編
 『東路のもろこしの里におりてたつきぬをやからの衣といふらん』
 柿本人麿の歌。平塚市の海岸から大磯にかけての一帯はむかし唐土
が原(もろこしがはら)と呼ばれていたらしい。
 

47.新古今集 巻四 複製

 

 『こころなき身にもあはれはしられけりしきたつさわのあきの夕くれ』
 西行法師のあまりにも有名な歌である。鴫立沢は神奈川県大磯町の
西南700メートル付近をいう。西行法師が陸奥へ下る途中に詠んだ
ところとして知られている。文覚上人の作と伝えられる西行法師の木
像を安置した西行堂がある。
 

48. 源氏物語 帚喬木

 

紫式部著(平安中期の女流文学者・生没年未詳)
 『人々、わた殿よりいでたる泉にのぞきゐて、さけのむ。あるじも、
 「さかなもとむ」と、こゆるぎのいそきありくほと、・・・』
 こゆるぎ(小余綾)は今の神奈川県中郡大磯町付近から小田原市国
府津にかけての海岸をいう。万葉集にも「淘綾(よろぎ)の浜」と詠
われている。上記の記述は小ゆる(動)ぎと磯(急)ぎ歩くと掛けた
ものである。
 

49.古今集 巻十七

 

 『たまだれのこがめやいづらこよろぎのいその浪わけ沖に出でにけり』
 小淘綾磯(こよろぎのいそ)は今の大磯から国府津にかけての海浜
をいう。大磯は古くは相模国府の所在地である。「和名抄」に相模国
余綾郡余綾郷があり、与呂木と訓じている。
 

50.五十三次名所図会 大磯

 

広重筆 安政2年(1855)刊

51.東海道五十三次 大磯

 

初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻
 

―小田原―

52.東海道中膝栗毛

 

十返舎一九著
 『ほどなく小田原のしゆくへはいると、両かはのとめおんな
  女「おとまりなさいませませ」ト よびたつるこへかしましく弥次郎しば
  らくかんがへ、梅漬の名物とてやとめおんなくちをすくして旅人をよぶ』
 『東海道中膝栗毛』では弥次郎兵衛・喜多八の二人が小田原で滑稽な失
敗をする話が名高い。五衛門風呂を知らぬ弥次郎が思案したあげく下駄を
はいて入り、素知らね顔で喜多八にすすめる。そうとは知らぬ喜多八、そ
の熱きにおどろく。やがて弥次がかくした下駄を見つけ、それをはいては
いっているうらに釜底を抜いてしまう。道中初の失敗談である。
 

53.五十三次名所図会 小田原

 

広重筆 安政2年(1855)刊
 

54.東海道五十三次 小田原

 

初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻
 

―足柄―

55.万葉集 巻十四・東歌 複製

 

 『足柄の刀比の河内に出づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに』
 足柄の土肥の川沿いの地に湧き出る温泉(湯河原温泉)の湯がゆら
ゆら揺らぐように、決して心が揺らいではいません。もう心は決まっ
ています、あなたのものですとあの娘は言った。その言葉を反芻して
喜んでいる若者の歌である。
 近くの足柄峠は、美濃・信濃国境の神坂峠、上州・信州国境の旧碓
氷峠とともに東国の三大峠として名だたる難所であった。
 いま湯河原温泉のほぼ中央に前記の万葉集の歌を刻んだ碑が建って
いる。
 

56.義経記 巻四・土佐坊義経の討手に・・・ 複製

 

 『其日は、酒匂の宿にぞ着きたりける。当国の一の宮と申すは梶原が
知行の所なり。』
 足柄平野を流れる酒匂川の口、国府津の西には酒匂の宿場があった。
「義経記」には、頼朝より義経討ちの命を受けた、土佐房昌俊の一行
が鎌倉を出発しその日に宿泊した地名としてかかれている。
 

57.万葉集 巻七・東歌 複製

 

 『足柄の箱根飛び越え行く鶴のともしき見れば倭し思ほゆ』
 都へ帰ろうとしている旅人は、これから足柄峠を越えようとしてい
る。峠の南には箱根山。その箱根山を楽々と鶴が飛び越えて都の方へ
飛んで行く姿が旅人にほ羨ましい。
 この一首は東国と大和の境である足柄峠を越える事の大変さを伝え
ている。
 

58.太平記 巻二・俊基朝臣再ビ関東下向事

 

 『竹ノ下道行ナヤム足柄山ノ嶺ヨリ、大磯小磯直下テ、袖ニモ波ハコ
  ユルギノ、急トシモハナケレドモ、日数ツモレバ、七月廿六日ノ暮程二
  鎌倉ニコソ着給ケレ。』
足柄山の難路に苦しみながら峠を越える俊基の姿が書かれている。
 

59.曽我物語 巻七 複製

 

 『十郎は、「あしがらをこえてゆかん」といふ。五郎は、「はこねを
  こえん」といふ。いわれあり。』
 足柄は、現在の足柄峠付近。
曽我物語は、曽我兄弟(十郎祐成、五郎時致)がエ藤祐経を建久4
年(1193)5月28日暗夜蒙雨をついて陣屋(富士宮市)を襲い仇討の
本懐を遂げた話である。
 今の小田原市谷津の城前寺に兄弟の墓があるという。
 

―箱根―

60.東関紀行

 

 『湯本といふ所にとまりたれば、御山おろし烈しくうちしぐれて、谷
  川みなぎりまさり、岩瀬の浪たかくむせぶ。』
 箱根越えをした筆者は、山麓の温泉郷湯本に宿泊した。温泉郷の持
つのどかなイメージとはうらはらに、その夜は山おろしの風がしぐれ
を吹きつけ、波音が高かった為、筆者の眠りをさまたげたという次第
であった。
 

61.曽丹集

 

曽根好忠著(平安中期の歌人・生没年未詳)
 『はこね山ふたこの山も秋深み明けくれ風にこのはちりかふ』
 『曽丹集』は平安中期の歌人曽根好忠の歌集。
 晩秋の旧東海道にて詠まれた歌である。ふたごの山は二子山で箱根
山中の一峰である。東海道の旧道ほその南麓を通っていた。
 ふたご山も秋が深まってきた、朝タの風に木の葉が散って寂しい
ことだ、という意。
 

62.金塊和歌集

 

源実朝著
 『玉くしげ箱根のうみはけけれあれやふた山にかけて何かたゆたふ』
 二所詣で(箱根権現と伊豆山権現)をして箱根権現に参り、思いが
けず高い山中に広がる大きな芦の湖に心をひかれて詠んだ歌である。
 箱根の湖は、心があるのだろうか、まるで心を持つ物のように相模
の国と駿河の国との二つにわたって山中にゆれている、という意。
 「けけれ」は心の東国方言。
 

63.東海道中膝栗毛

 

十返舎一九著
『彼是興じてふしたりけるに、はやくも聞ゆる遠寺のかねに、一睡の
 夢は覚て、夜明ければやがておき出、そこそこに支度して立出けるに、
けふは名にあう筥根八里、はやそろそろと、つま上りの石高道をたどり
行ほどに、風まつりちかくなりて弥次郎兵へ
  人のあしにふめどたたけど箱根やま
     本堅地なる石だかのみち
北「コレコレ明松を買はねへか。ここの名物だ」
弥「べらぼうめ、もふ日の出る時分、明松がナニいるものか」
    ・・・― 中略 ―
  又ここに湯本の宿といふは、両側の家作りきらびやかにして、いづれ
  の内にも美目よき女二三人ヅツ、店さきに出て名物の挽もの細工をあき
  なふ。・・・』
 小田原の宿の風呂騒動のあと、一夜明けて早朝に出発し箱根八里に
とりかかる。風祭付近になるともう道がのぼりになりだし、石がごろ
ごろのでこぼこの坂道になった。湯本の宿では、美女たちが店先に出
て名物の箱根細工を売っていた、というくだり。

 

64.東海道五十三次 箱根

 

初代広重筆保永堂版東海道五十三次の複製 大正14年復刻。
 

―真鶴―

65.義経記 巻三・頼朝謀反の事 複製

 

『治承四年八月十七日に頼朝謀反起し給ひて、和泉の判官兼隆を夜討
ちにして、同十九日相模国小早川の合戦に打負けて、土肥の杉山に引
籠り給う。大庭三郎、股野五郎、土肥の杉山を攻むる。廿六日の曙に  
伊豆国真名鶴崎より舟に乗りて、三浦を志して押出す。折節風はげし
くて岬へ舟を寄せかねて、二十八日の夕暮に安房国洲の崎といふとこ
ろに御舟を馳せあげて・・・』
 治承四年八月十七日の緒戦には勝利Lたが、後日攻撃を受けて真鶴
から舟で頼朝主従が敗走するくだりである。
 

66. 画図 西遊旅譚

 

司馬江漢著(1747-1818)
 江戸から長崎にいたるまでの名所旧跡、風俗、物産などを図説した
もので神奈川、真鶴の図などが含まれている。
 

 

 

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