第二十一回 知ってるつもり!? −江戸後期の農村−

 

展示にあたって

 江戸時代の幕藩体制の基盤を支えていたのは名もない農民達であったと言っても過言ではない。
 今回は付属図書館で所蔵する資料の中から一地方を事例として、結城藩前沢村(現栃木県益子町)に残っていた文書を中心にとりあげてみた。それらは、年貢の収奪・飢饉・田畑の荒廃・水利権の主張・日々の生活のもめ事など、支配者層と被支配者層との両面から当時の実態を如実に今日に伝えてくれる史料である。
 この展示を通して江戸後期における農民生活の様子をうかがい知る一助にして頂ければ幸いである。

 

− 総 記 −
 

1. 御婦礼嫁喜

 

江戸期・年未詳・寅五月
 
四ヶ条から成り、男女の交わりは子孫繁栄の為であり、夫婦生活を営むうえで天地陰陽の道理に反
する様な行ないをしてはならないと戒めている。各条には儒教思想が色濃く反映されている。

 

2. 徒罪人鬢髪并半纏腰環鎖図式

 

江戸期・年未詳
 罪人に対する鬢髪<びんぱつ>の結い方・着せる半纏<はんてん>の型・腰まわりに用いる環鎖が、
罪状により異なるということが図示されている。

 

3. 御家女消息往来

 

江戸期・年未詳
 この史料は、女性が手紙を書く際の教科書の様なもの。日常生活や諸行事を教材としている。
現在で言えば How to もの。

 

4. 御仮名手本

 

安政二卯(一八五五)年仲冬吉日
高橋粂之助写
  カタカナのお手本。
 

5. 大日本国つくし

 

安政期頃
高橋粂之助写
  日本国内六十余国を、畿内・七道に分け、それに該当する国名を記してある。
 

6. 七ツ伊呂半

 

天保十五甲辰(一八六七)年
高橋良助写
  いろは文字の手習い手本であり、読み書きの教科書のようなもの。

 

7. 商売往来

 

嘉永七甲寅(一八五四)年弥生五日
高橋毎松所持
  商売の心得などを書き記したもので、今日の商売の How to もののようなもの。

 

8. 年中行状録

 

慶応三(一八六七)年
作製者‥高橋兵左衛門
  火の用心、家内和合など日常生活における家族の戒めを記したもの。一種の家訓である。

 


− 支 配 −
 

9. 殿様御帰城ニ付村役人召喚

 

江戸期・年未詳・辰三月二十七日
差出人‥結城町役人  受取人‥村々御役人中
  結城藩の殿様が参勤交代から御帰城されたので、村役人は平服で城下に来て祝賀することを命じた
廻状<かいじょう>である。
 一方の書状は、(殿様の)御帰城を農民に徹底せよと記してある。この書状の特徽として、村名の
下に印のある村はすでに廻状を回覧済である事を意味している。
 

10.領内江布告書

 

江戸期・年未詳・四月
差出人‥執政
  農民心得に関する布告書である。農民は領主の言いつけを守り、農業・親孝行に勤め、堕胎の習慣
を絶つことなど、農民の日常生活上の心得を述べている。

 

11.公儀御触書

 

江戸期・年未詳
 安政元年(一八五四)、再度来航したペリーなどの外国の進出に危機感を持った幕府は、攘夷論者
の考明天皇を説得して、海防強化のため、翌年三月三日諸国の寺院に対して寺宝の鐘・時を告げる鐘
以外の梵鐘を供出させ、大砲・小銃に鋳換えようとした。
 この触書<ふれがき>は、三月三日の考明夫皇の布告に対応して、幕府が九月に発布した触書の写
しである。

 

12.安政の大火参考絵図

 

  安政五年二月十日夜五ツ時(現在の午後八時)、江戸日本橋小田原町付近から出火。おりから西北
の風激しく安針町(現在の東京駅八重洲ロ)、浜町、神田鍛冶町等を焼いた。被害は町数百十八ヶ町、
里数三里十町、蔵数百八十五ヶ所余、寺ニヶ寺(岡崎町・玉ゑん寺、れいかんしま・ゑんかうじ)を
焼失した。
 史料中朱書きの部分が焼失箇所である。御江戸切絵図(嘉永・安政頃刊)の内、焼失付近の地図を
参考に展示した。

 

13.安政五午年十一月十五日江戸大火焼場方角附

 

 安政五(一八五八)年十一月十五日明七ツ時頃(午前四時)、江戸下谷の長者町から出火し、折し
も西風にあおられ大火となり内神田・外神由・日本橋の大部分を焼きつくした。
 この史料によれば 被害は堅四六町横二三町・町数二八五町・屋敷七六ケ所・蔵数五一一ケ所・家
数七八、五ニ○軒を焼失したと記されている。

 

14.廻状写

 

安政六未(一八五九)年十月二日
作製者‥野州芳賀郡前沢村名主 高橋兵左衛門
 本来廻状は次々に回覧し、手元に残らない。そのため村内に関するありとあらゆる重要な内容を書
き留め、記録として残したものである。

 

15.御用留

 

万延二辛酉(一八六一)年正月より文久二(一八六二)年二月迄
作製者‥前沢村役元
 村行政に関する法令等を書き留めたもの。領主から来た廻状を書き留めてある。内容は、領主への
お正月の敵上品として白銀十枚と二朱一荷をおさめた等の事が記してある。

 

16.御取締向御達之條々

 

文久三亥(一八六三)年八月十日
作製者‥長堤村小惣代 要蔵
 文政改革の風紀取締に関して勘定取締掛<かんじょうとりしまりがかり>と関東取締出役<でやく>
が、八月十日に出した「條々」を八月十三日に要蔵が写したもの。

 

17.定及び差出申証文之事一通を含む

 

慶応四戌辰(一八六八)年三月
差出人‥下野国芳賀郡前沢村組頭 造酒之助<みきのすけ>
 邪宗門徒(キリシタン)は禁止されているので、不審な人(信仰していそうな人)がいたら役所に
申し出なさい、と記してある。
 明治維新初期には、江戸時代と同様にキリシタンが禁制されており、キリシタン探索も継承されて
いた。後、明治六(一八七三)年諸外国の非難を受けキリシタン禁令は撤廃され、布教の自由が保証
された。

 


− 土 地・貢 租 −
 

18.畑成田地調帳

 

慶応二寅(一八六六)年九月
作製者‥前沢村
 検地帳で田地であったものが水利の変更の関係で畑地に変わったものを取り調べた帳面。字名と田
地の等級・畑地に変更になった反別耕作者が記されている。

 

19.荒畑起返書上帳控

 

慶応二寅(一八六六)年九月
作製者‥前沢村
 荒廃した畑地を再開発し、その場所の地名・等級・反別高・再開発者の名前を記してある。

 

20.下野国芳賀郡前沢村酉御年貢可納割之事

 

嘉永二酉(一八四九)年十一月
差出人‥浜嶋忠三郎 三宅武兵衛  受取人‥前沢村役人
 貢租には農民に賦課される本途物成・小物成・夫銭<ほんとものなり・こものなり・ぶせん>等と、
商人等に賦課される運上・冥加があった。領主が発給する年貢割付状・年貢皆済目録、農民が検地帳
をもとに作成する名寄帳・取箇帳などががその記録である。
 年貢徴収の基礎となる検地は、通例“検見取法”によって行なわれた。これは「坪刈り」(一坪の
稲を刈取り計量すること)によって作柄を決定し、その結果を基に検地帳の地目・等級・斗代を勘案
して、年貢量を確定する方法である。年貢は、徴租法・免税(年貢率)や、領主と農民のカ関係によ
り決定された為、各地域で高低があるのが一般的である。
 この様にして確定された“村高”(各農民持高を集計したもの)に年貢は賦課きれ、名寄帳(検地
帳を基に各農民の地目ごとの持高を記載した帳面)を基に農民個人が負担する年貢量を決定した。
 ところで、領主は年貢を賦課する際、収納すべき年貢の種類と量を記載した一種の明細書を村に出
した。この明細書を「年貢割付状」と言う。
 年貢割付状は 村高・田地・畑地・その他に大別され、各項目ごとに地目・等級が集計され、その
項目ごとに一反歩(現在の三〇〇坪、約一〇〇〇u)当りの年貢賦課基準と、その総量及び定免・検
見などの年貢徴租法が記載されている。年貢収納は、田年貢は米納、畑年貢は銭納が原則であった。
更に雑租があった。また、年貢が領主に定納されると、それを証明する「年貢皆済状」(一種の受取
状)を村へ出した。

 

21.田反別御取箇割附帳

 

嘉永六癸丑(一八五三)年十月
作製者‥前沢村
 農民の所有する田畑の地目ごとの年貢負担を記したもの。反あたりの年貢高が出されている。文中、
“口米・入米<くちまい・いりまい>”と出て来るが、これは本年貢に付加された付加税であり、本
年貫に付加税を加えたものが農民が負担する年貢である。

 

22.結城出夫人割合帳

 

元治元甲子(一八六四)年六月
作製者‥前沢村役元
 結城藩に出す六月九日〜十月までの、夫役<ぶやく>人足の量を書き記したもの。
夫役とは、藩領・旗本領(私領)の農民が領主の屋敷の庭掃除や家屋普請などの際、雑役夫として徴
発される事をいう。
 

23.乍恐以返答書奉申上候

 

文政七甲申(一八二四)年五月
作製者‥前沢村百姓代 幸左衛門外四名  受取人‥中里嘉八郎
 この史料は、前沢村内を流れる小川(桜川)の用水権が前沢村に所属するか上山村に所属するか争
った際の前沢村の返答書(前沢村の主張)で、桜川は前沢村の所属であることを主張している。
 水田耕作を中心とする日本農業にとって、灌漑は最も重要な問題であった。そのため多くの溜池や
堰が作られ、灌漑用水として利用された。この取扱については厳格な決まりがあり、基本的には水源
に近い所や灌漑施設の築造になった村の水利権が強かった。堰は洪水の際、水の流れをさまたげる為、
度々堤防決壊の原因となった。現益子町では、今日では建設省の河川整備によって堰は取払われ、場
水ポンプを使用している事が多い。

 

24.差上申一札之事

 

天保十二丑(一八四一)年七月二十日
差出人‥佐竹右京太夫領分野州河内郡東根村惣代名主 弥左衛門外八名   受取人‥道中奉行所
 泉根村外二ヶ村が困窮して、小金井宿の助郷<すけごう>を負担しきれなくなり、その休役を道中
奉行に訴え、許可された。その際代役を命じられた仙波村他六ヶ村が助郷役をどれだけ負担するかが
記されている。

 

25.小金井宿当分助郷諸入用調并割合取立帳

 

文久二戌(一八六二)年十二月
作製者‥前沢村役元
 十一月二十六日〜十二月末までの一時期、前沢村が小金井宿の助郷を勤めた際の諸入用と農民一人
一人の負担額を記している。又、史料では農民の負担は「高百石二付金一両三分也」と記されている。
江戸幕府では諸大名の公用交通を円滑に行なうため、五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光道中
・奥州道中)等の道や宿場の整備に努めた。この内五街道など主要街道は幕府が直接支配し、他の道
は各藩が支配した。宿場は原則として二〜三里(八〜十二q)ごとに設けられた旅人の宿泊、荷物の
運搬等を行なった。
 また、宿駅には伝馬が常備されていたが、参勤交代の始まりとともに、宿駅の伝馬のみでは需要に
対応することが出来なくなった為、助郷制度が設けられることになった。
 助郷には、定助郷(宿場の人馬が不足した際、常に補充をしなければならない村または課役)・加
助椰(定助郷で人馬が不足した際、臨時に人馬を負担させられた村または課役)・当分助郷(臨時に
短期間、人馬を負担させられた村または課役)・代助郷(本来の助郷が災害等で免除された場合その
代わりを勤める村または課役)等の種類がある。

 

26.日光公用御用金割合帳

 

天保十三寅(一八四二)年八月
作製者‥前沢村名主 丈介
 天保十四(一八四三)年四月、十二代将軍家康<いえよし>が日光参詣を行なった際、その費用の
一部分を農民が負担した。その時の農民一人一人の負担額を記したもの。農民の負担は、史料では「
高百石二付永五貫文掛」と記されている。
 二代将軍徳川秀忠は家康を祀るため、元和三(一六一七)年三月、日光に廟を建立した。この廟は
寛永十一(一六三四)年から三代将軍家光によって大改築が行なわれ幕府の聖地となった。
正保三(一六四ニ)年以降、毎年朝廷より奉幣使(日光例幣使ともいう)が派遣され、将軍の参詣
(日光社参)も元和三(一六一七)年以降十九回も行なわれている。よって日光の街道筋にあたる下
野の農村は将軍の社参や法会等に伴い莫大な諸負担を被った。

 

27.日光御修復御下ケ金割合帳

 

文久三亥(一八六三)年一二月
作製者‥前沢村名主 高橋良輔
 文久元酉(一八六一)年より同三亥(一八六三)年まで三ヶ年分の日光東照宮修理の際小金
井宿の定助郷と当分助郷を勤めた六十二ヶ村に御手当金が下賜されたので、その分配を記した
もの。それぞれの助郷の勤め高に応じて分配された。

 


− 村 制 −
 

28.往来手形之事

 

文政十二丑(一八二九)年三月
作製者‥天台宗普門寺  受取人‥栗橋御関所御当番衆中
 千代という十二歳の少女が重い眼病を煩い、江戸の眼医者にかかる為に発行された往来手形。
往来手形は江戸期、庶民が旅する際その身分を証明したもので、必ず携帯しなければならなった。
檀 那寺や名主が発行したものが多い。
 

29.人別送り手形之事

 

安政三辰(一八五六)年二月
差出人‥山内総左衛門御代官所野州芳賀郡亀山村名主 重郎左衛門   受取人‥前沢村御名主衆中
 前沢村の丈輔方に亀山村の百姓清左衛門の妹・久満(くま・二十三歳)が嫁入して来たので、久満
の檀那寺(円林寺)と宗旨(天台宗)を記して前沢村の名主に通知したもの。この場合は婚姻届の様
なもので、これがなけれほ無宿者になる。当時は檀那寺ごとに宗門改があり、邪宗徒(キリシタン)
ではなく、どの宗門に属しているかは大事な事であった。又、人の移動は即、労働カに影響してくる
ので重要な事であった。婚姻・旅行・住居の移転・奉公などの際には、村役人発行の人別送り状・奉
公人請状や旅行の往来手形のほかに、宗旨手形・宗門送り状・寺送り状などと呼ばれる手形が必要と
され、これらの手形などは該当者がキリシタンでないことを檀那寺が証明し、相手方の村役人に提出
することになっていた。この手続きをしなくて他地へ移動すると、無宿人・浮浪人として取り扱われ
る事になっていた。

 

30.下野国芳賀郡前沢村人別宗旨御改帳

 

万延二酉(一八六一)年三月
差出人‥下野国芳賀郡前沢村組頭 竹次郎外三名   受取人‥名和兎毛作外三名
 内容は宗門改帳である。これは、現在の戸籍台帳にあたる。
 寺請制度とは、キリシタンを禁圧した暴藩領主が、隠れキリシタンを摘発するために全ての人々に
檀那寺を定めさせ、檀那寺にその人々がキリシタン信徒でないことを証明させた制度である。庶民ま
で対象とされた寺請は寛永十二(一六三五)年という説が有カである。初期の寺請証文は、僧侶がそ 
の人間がキリシタンでないこと、寺の旦那であることを責任をもって証明すればよく、きまった形式
はなく、地域差があった。
 宗門人別改帳の作製時期については、諸説があるが、相模の国では、小田原藩の「永代日記」によ
ると、寛文五(一六六五)年頃小田原全域で作成されたようである。また宗門人別帳は、一軒ずつ(
特高の記載のないこともある)名前・年齢・生国・続柄・牛馬の所持数と檀那寺名・寺の宗派・寺の
所在場所が記載されており、戸籍台帳の機能を待っている。このため寺院は一種の戸籍事務を取扱う
機関になり、幕藩領主の民衆支配の一翼を担う事になった。又宗門人別改は、村役人と檀那寺の僧侶
が連印して一冊は領主に提出し、一冊は村で保存する事になっていた。

 

31.戌人別増減書上帳

 

文久二(一八六ニ)年正月
作製者‥前沢村
 宗門人別改帳が作成された後の人ロの増減を記したもので、宗門人別改帳を補足するものである。

 

32.下野国芳賀郡前沢村五人組御改帳

 

嘉永五壬子(一八五二)年三月
差出人‥下野国芳賀郡前沢村組頭 四郎右衛門外二名  受取人‥大束庄右衛門外二名
 五人組制度とは、幕藩領主が村ごとに設けた相互検察・連帯貴任制であるが、およそ五人で組を構
成(ニ〜九人の場合あり)したのでその名称がある。五人組は本百姓又は高特百姓で構成され、その
中から組頭(判頭<はんがしら>・五人頭・組親などとも言う)が選ばれ、名主の指示のもとに構成
員を取り締まった。また名主は年に数回、五人組帳前書を反復朗読してその趣旨の徹底を図った。こ
の五人組の創設時期については、寛永三(一六二六)年頃といわれている。この制度の連帯貴任制や
密告制によって“長いものには巻かれろ”という事勿かれ主義が庶民の間にはびこることとなった。
この五人組帳前書では、具体的なその内容は不明であるが、農民が守るべき条目が八十八ヶ条あった
事が記されている。おそらく「慶安の御触書」(慶安二<一六四九>年発布)に準拠したもので、衣
類、装飾品、婚礼などの奢侈の禁止、家作の制裁、勤労の奨励、いたづら者、悪者の摘発、又は、密
告の奨励、欠落の防止などであったものと推測される。また、村役人(特に名主)は、農民の代表者
的面と、領主の支配機構の末端の支配者的面という二重の性格を持ち、村の運営をはかっていた。
 名主は村の代表者として村の行政全般を司り、年貢の収納・土地や農民の移動の把握・簡単な裁判
や警察権の行使などを行なっていた。そのため“名主給”という給米かあるいは年貢の一定額を免除
されていた。
 ところで、名主は近世初期には世襲制であったが、年貢納入や村費の徴収の際に、しばしば不正を
働くことが多かった為、後に入札(選挙)で決められる場合も出てきた。

 

33.乍恐以書付奉願上候

 

安政六未(一八五九)年十二月
差出人‥前沢村  受取人‥村御役人衆中
“海防御手当御鉄砲新番衆”という役職を領主から任じられたので、領主に対して冥加金三十両を
献上したものである。このような役職に任命される事は村内において格が上になることでもあるし、
また、名誉なことであった。幕末になると、これまでなかった役職や名字・帯刀などを農民に与え、
領主は冥加金を手にしたことが多かった。

 

34.覚

 

江戸期・年未詳・亥十二月六日
差出人‥大束庄右衛門  受取人‥前沢村名主・組頭・百姓代中
 困窮の場合の領主から農民への救済の一種である。米二十俵が下賜され、十俵は助郷を勤めた為に、
もう十俵は病人のいる家々の救済のために与えられている。

 

35.五年賦返納・御種籾利足・定例積立・稗取立帳

 

文久元酉(一八六一)年九月十三日
作製者‥前沢村
 一家ごとに五年間で返済する約束で借りた品々の返済状況が述べてある。返済の為の積立・稗での
返済・種での利足返済の三つの方法の返済から構成されている。

 

36.出牢一件

 

江戸期・年未詳・正月二十二日
作製者‥役人
 前沢村常右衛門のせがれ平助が、村の「てば太鼓」を質入したときについて取調べの為、真岡陣屋
に入牢されたが、質入行為を悔いたので、平助を“村預”の処分にした。という事が記されているも
の。
 

37.差上申済口証文之事

 

嘉永六丑(一八五三)年八月十三日
差出人‥前沢村 代吉外七名  受取人‥村役人衆中
 この済口証文は、娼家遊びをした代吉のせがれと久兵衛との間にトラブルが生じ、その処理を村役
人に願い出て裁許を得ようとしたところ、仲裁人太右衛門のロ利きで和解した。これはその旨を証文
にしたものである。
 近世社会においては、種々の争い(境争論は除く)は当事者間で解決する事が原則であった。その
為、当事者間に仲裁人が入り、争いを解決する事が多かった。このような解決方法を内済という。内
済で解決した場合、必ず済口証文を作成した。

 

38.乍恐以書付御訴訟奉申上候

 

弘化五申(一八四四)年二月
差出人‥訴訟人 天台宗普門寺良善  受取人‥寺社御奉行所
普門寺(上山村)の薬師堂領(朱印地で五石四斗)の御除地(年貢を収めないでよい土地の事)が
長堤村に存在することの確認を求めた訴状。

 

39.差上申済口証文之事

 

安政三辰(一八五六)年正月十七日
差出人‥前沢村 惣兵衛外五名  受取人‥村役人衆中
 栄助という男が、ある夜惣兵衛宅に忍び込み婦人に乱暴したため訴えられたが、仲裁人が入り和解
をした。その際、作成された済口証文である。

 

40.乍恐書付ヲ以奉歎願候

 

安政五午(一八五八)年六月
差出人‥山本村長次郎親類 仁兵衛外一名  受取人‥前沢村御役人中
 長八のせがれ長次郎が、賭事をしていたのを見咎められたので慌てて逃げた。その際に金一分二朱
と銭五〇〇文を入れた財布をその場に落としたので、返して欲しいと願い出たもの。

 

41.養蚕秘録

 

享和三(一八〇三)年刊
上垣守国著

 

42.農具便利論

 

天保八(一八三七)年刊
大蔵永常著

 

43.山根御林御用松板仕出シ帳

 

文久二戌(一八六二)年二月より五月迄
作製者‥前沢村 高橋兵左衛門
 蓮林から松板を作る為の手間賃について記してある。
 当時の山林には幕府・藩所有の御林と農民の所有の林、村の所有林との三つの形態があった。又、
藩は藩林を所有し、山奉行・林奉行が置かれたケースがある。これらの山林は主な用途として、災害
復興・材木問屋への売却・炭焼用等があった。

 

44.覚

 

江戸期・年未詳・寅二月二十七日
差出人‥野本栄左衛門外一名  受取人‥前沢村名主・組頭・百姓代中
 領主が馬を買う時に、年貢米を担保にして馬を購入した証文である。

 

45.質地証文之事

 

江戸期・年未詳
差出人‥前沢村質地主 兵蔵他一名  受取人‥村 良輔
寛文二十(一六四三)年に田畑永代売買禁止令で、田畑の売買・土地の移動は禁止された。それは
法的には明治五(一八七二)年まで続いた。しかし、農民は経済的に困窮すると、田畑を質入して、
金銭を借用する事があった(質地)ので、実際には“質地”の形態で土地の移動が行なわれていた。
 また、質入期間が終了すると、きらに又、質入をするという場合が多かった。

 

46.御仕法無尽懸金取立帳

 

文久三亥(一八六三)年二月
作製者‥前沢村
 仕法のかけ金の取立張である。
荒廃した農村を復興させる為に、幕末期には、この地域では、仕法(農村復興政策・村おこし)を行
なう事が多かった。その方法の一つに農民が金銭を毎月一定額を一定期間積立て、必要な農民に貸付
ける方法(無尽)があった。この史料は、その積立金の様子を記載したものである。

 

47.奉公人請状之事

 

慶応三卯(一八六七)年十一月
差出人‥前沢村奉公人 庄治郎外二名  受取人‥山本村 幸助
 質物奉公の一例である。庄治郎が年貢上納に差詰まったので、農閑期の半年間幸助方に四両で奉公
に出た時の証文である。
 奉公とは、借金の代償に、一定の期間貸主の家に住み込んで家事・家業に従事する事をいう。農民
が奉公に出ると農家の主要な働き手を失うことになり、農業経営が成り立たなくなって来るので幕府
はそれを原則的には禁止していた。しかし、幕末になるとこの史料の様に農閑期の短期奉公が一般的
に行なわれる様になってきた。

 


− 家 制 −
 

48.口演

 

江戸期・巳年七月十日
差出人‥長堤村若者  受取人‥前沢村 高橋兵左衛門
  天候不順のため晴天祭を開催するとの案内・紹待状である。差出者の長堤村若者は“若者組”の事
と思われる。
“若者組”(わかものぐみ)とは、村落内での年令集団の一つであり、若衆組・若者仲間ともいう。
益子において若者組の活動が活発化してきたのは、文化・文政期以降である。若者組の史料は大きく
二つに分かれ、一つはよそ者への制裁行為及び社会規範からの逸脱行為の監視・取締りであり、もう
一つは祭り等に係わる事である。
 当時若者組は独自のやり方で村政へ参加していき、それはある面では従来からの慣習と軋轢<あつ
れき>を起こす事になり、又、祭りなどの「ハレ」の行事への前向きな取り組み、祭礼の際の担当を
めぐって村役人と対立するなど、村政において無視できない存在であった。

 

49.覚

 

江戸期・年未詳・正月十五日
差出人‥源右衛門  受取人‥上
 代金書付である。未年七月十三日(おそらく、この史料の書かれた前年)の酒肴代金等、金一朱五
九一文の請求書。

 

50.遊女玉菊供養碑文

 

江戸期・年未詳
作製者‥四代目尾上菊五郎
 四代目尾上菊五郎が遊女玉菊の死を惜しんで供養のために建てた碑文の写し。なお、四代目尾上菊
五郎(一八○八〜六〇)は大阪の生れ、女形が専門で、おっとりとした時代物を得意とした。

 

51.書簡

 

江戸期・年未詳・未五月二十七日
差出人‥惣代役長堤村 掘中平十郎 外四ヶ村役人  受取人‥前沢村 外一ヶ村村々御役人
 八幡宮神職の相続人(後任)を決定したいので、参集をお願いしたが集まらなかったので、この書
状がついたら、早急に集まってほしい、という内容である。

 

52.天王宮焼失二付再興勧化性名帳

 

文政十三寅(一八三〇)年閏三月
作製者‥奉納所
 現在の寄附集めである。天王宮が火災で焼失したので近隣の各村から奉納所へ寄附を募った時の帳
面である。この史料では、奉納者の多くに姓がある事が注目される。これは、農民の自称であり公的
に認められたのは、明治三(一八七〇)年からである。

 

53.御祠堂米<ごしどうまい>借用証文之事

 

慶応二寅(一八六六)年十月
差出人‥前沢村借用人名主 兵左衛門外二名  受取人‥長谷寺世話人衆中
 平助という農民が、長福寺入池上の地目二反二畝二十五歩にある雑木を担保に、長谷寺の祠堂米を
借用した。しかし、返済出来ないので兵左衛門が肩代わりした事を示す証文である。
 祠堂米(金)とは、寺社の堂宇の修復の為の財源確保を名目に、寺院が庶民に貸しつけた米(金)
の事。この史料では年利十五〜二〇%程度になっている。

 

54.下野国芳賀郡長堤並前沢村絵図

 

明治二(一八六九)年写

 

55.常陸・下野・上野三国図

 

天保十四(一八四三)年刊の複製

 

56.秣草場<まぐさば>出入の裁許絵図の写真版

 

寛文十二(一六七二)年

 

57.流水変化によっておこった土地争いの図面の写真版

 


 

58.日光道中分間延絵図

 

文化四(一八〇七)年作成の複製

 





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