第六回 1983年10月 近世儒者書簡展

 

近世儒者書簡展について

 
 東海大学附属図書館は昭和五十二年に「北尾コレクション」を購入した。これは札幌市在住の北尾義一氏が親子二代にわたって蒐集された、主として近世の武将や僧侶、儒者の書簡類約三百点から成るものである。今回はこの中から、特に近世の儒者の書簡四十七点を選んで展示することにした。
 わが国で漢文学が隆盛した時期は、嵯峨帝を中心とした平安時代、五山の禅僧を中心とした鎌倉・室町時代、そして近世であった。この近世、即ち江戸時代にあっては、儒学が盛んであり、それは経世、思想、文北のあらゆる面に大きな影響を及ぼした。儒者はまた、学問のみならず、よく詩文を作った。例えば荻生徂来一派の古文辞学の儒者には、経学儒者ならぬ文人儒者が輩出したのだった。ここに展示した書簡にも、文人としての特徴ある筆致の一部を伺い知ることができるものが数多く含まれている。
 近世儒者の数は多く、また学派の系統も複雑である。そこで、以下、展示に係わる儒者と学派について簡単に述べておきたい。(展示した書簡の筆者については※印を付した)

 近世漢文学史では便宜上、八代将軍吉宗の享保二十年 (一七三五) までを江戸前期と称し、その翌年から慶応三年 (一八六七) までを江戸後期と称している。 江戸前期では、朱子学派と古文辞学派の人々の中に詩文の人が多かった。朱子学派には藤原惺窩があり、その門に林羅山、那波活所、堀杏庵、松永尺五の四天王、及び石川丈山がいた。尺五の門からは木下順庵や宇都宮遯庵席が出た。順庵の門には詩人も多く、新井白石(※)、雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海などが殊に著名である。「女大学」を残し、本草学者でもあった貝原益軒(※)も初期の朱子学者であった。
 古文辞学派の人々は、文人儒者として全てが詩に勝れていたが、中でも服部南郭(※)、太宰春台、大内能耳、高野蘭亭、山県周南などが著名である。唐詩選は徂徠をはじめこの派の人々が流行させたものであった。南郭の門からは秋山玉山、春台の門からは松崎観海(※)が出た。
 江戸後期には文人儒者が多くなり、平安時代の初期と相対して、日本文学史上、漢文が最も盛んであった。詩集類の出版も多く、勝れた詩人も少くなかった。中には江戸に出ず、地方に在ったために世に知られなかった勝れた詩人もあったと思われる。 朱子学派の林家は羅山の子孫へ受継がれたが、その伝流からは柴野栗山(※)や松崎慊堂などが出た。また市河寛斎の門には大窪詩仏や菊池五山(※)などがいる。那波活所の学を伝えた江村北海(※)は賜杖社を作り、同好の詩人を集めて研鑚した。それらの外に、岡白駒に学んだ菅茶山(※)があり、格調の高い詩風を残した。西依周行の門から出た古賀精里(※)には野田笛浦(※)、古賀穀堂、同 侗庵、野村篁園、斎藤拙堂(※)、草場偑川などが師事した。殊に笛浦、拙堂、篠原小竹(※)、坂井虎山(※)は文章の四大家として鳴っていた。大槻磐溪(※)はこの派の幕末最後の人であった。
 古義学派は伊東仁斎の唱道した学派で、仁斎派とも称し弟子三千人にも及んだといわれる。東涯(※)がその後を継ぎ、寛永から正徳にかけて隆盛した。 また、古文辞学派の人々には、南郭の系をひく片山兼山、観海の門から出た大田南畝(※)、即ち蜀山人と熊坂台州などがいる。南畝は狂詩に堪能で、詩集も残した。周南の門からは田坂 灞山、滝鶴台、亀井南溟などが出た。
 広瀬淡窓は南溟に学び、淡窓の弟、旭荘(※)は茶山及び南溟の子、昭陽にも学んだ。また、僧元皓に師事した宇野明霞の門から出た片山北海は混沌社を結成して社友を集めたが、尾藤二洲(※)や頼春水はその門下生であった。 頼山陽は茶山に入門したが二洲にも学んでいる。 更に、折衷派、考証派の人々の中では、井上金峨の門に山本北山(※)、朱子学から転向した亀田鵬斎(※)が知られる。北山の門には浅川善庵(※)、 梁川星巌や太田錦城、遠山雲如、大沼次山などがいる。星巌は玉池吟社を開き、詩の指導に力を用い名声を高めた。 古注学派の人々には明霞の門に村瀬栲亭、龍草廬、塩谷宕陰(※)などがいた。藤田幽谷(※)・東湖父子(※)などの水戸学もこの派に属した。

昭和五十八年秋

 

一 新井 白石 (あらい はくせき) (朱子学派)

 

書簡宛名、土肥源四郎

上総国久留里藩土屋利直の家臣新井正済の長男。江戸生れ。名は君美(きんみ)、通称勘解
由(かげゆ)、白石は号である。木下順庵に学ぶ。幕府に仕え、六代将軍家宜に寵遇を得、
間部詮房とともに幕政を補佐した。享保十年 (一七二五) 五月十九日六十九歳で没す。

 

二 貝原 益軒 (かいばら えきけん) (朱子学派)

 

自筆書簡

福岡藩祐筆役貝原寛斎の四男。名は篤信、字は子誠、通称助三郎、のち久兵衛。別号を損
軒・柔斎。藩命により松永尺五、木下順庵、山崎闇斎らに学ぶ。京都に遊学、寛文四年帰
藩し、黒田藩三侯に仕える。正徳四年 (一七一四) 八月二十七日、八十五歳で没す。

 

三 伊藤 東涯 (いとう とうがい) (古義学派)

 

 書簡宛名、渡辺又左衛門

伊藤仁斎の長男。京都堀河生れ。名は長胤、源蔵、別号を慥々斎。父仁斎の下で広く儒学
を学び、父の学を継承して掘川学派を盛んにした。新井白石、荻生徂徠らとも親交が厚く、
子弟をよく育成した。終身仕官せず、元文三年 (一七三八) 七月十七日、六十七歳で没す。

 

四 中井 甃庵 (なかい しゅうあん) (朱子学派)

 

書簡宛名、小圃千地之助

播磨国龍野藩士中井昌倫の四男、播磨生れ。一名は誠之、字は叔貴、通称四郎・忠蔵、甃庵
は号である。父に従い大坂に出、三宅石庵に師事した。正徳三年安土町に講舎多松堂を建
てた。のち享保十一年新たに大坂に懐徳堂を建て、石庵を学主に迎えた。この懐徳堂の地
は甃庵の奔走で永代拝領・諸役免除の特典を幕府から得た。宝暦八年 (一七五八) 六月十
七日、六十六歳で没す。

 

五 服部 南郭 (はつとり なんかく) (古文辞学派)

 

書簡宛名、高野蘭亭

京都生れ。名は元喬、字は子遷、通称小右衛門、別号を芙蓉館。元禄九年江戸に出、柳沢
吉保に仕えたが、享保元年致仕。荻生徂徠の古文辞学に共鳴し、門人となり、詩・古文辞
を修め、家塾を開き多くの門生に教授。宝暦九年 (一七五九) 六月二十一日、七十七歳で
没す。

 

六 松崎 観海 (まつざき かんかい) (古文辞学派)

 

書簡宛名、和田伴兵衛

松崎観瀾の子。名は惟時、字は君修、子黙・才蔵と称し観海は号である。太宰春台に師事
し、又高野蘭亭に詩を学ぶ。後、篠山藩に仕えた。安永四年 (一七七五) 十二月二十三日、
五十一歳で没す。

 

七 江村 北海 (えむら ほっかい) (朱子学派)

 

書簡宛名、村瀬弥次郎

伊藤龍洲の次男。播磨国生れ。丹後国宮津藩士の江村毅庵の養子となる。名は綬、字は君
錫、通称伝左衛門。詩文をよくし、当時の大坂の片山北海、江戸の入江北海とともにこの
三人を三都三北海といった。天明八年 (一七八八) 二月二日、七十六歳で没す。

 

八 細井 平洲 (ほそい へいしゅう) (古注学派)

 

書簡宛名、木村丈八

尾張国知多郡平洲村の豪農甚十郎の次男。名は徳民、字は世馨、通称甚三郎、別号を如来
山人ともいう。名古屋にきた折衷学派中西淡淵に入門。江戸に出て私塾嚶鳴館を開く。西
条・米沢・尾張各藩に招かれ講説した。その学風は徂徠学と宋明学との折衷であった。享
和元年 (一八〇一) 七十四歳で没す。

 

九 服部 栗斎 (はっとり りっさい) (敬義学派)

 

書簡宛名、藤田雄助

下総国飯野藩士服部南圃の四男、摂津生れ。名は保命、字は佑甫、通称善蔵。五井蘭洲に
学び、中井竹山と交わり、のち江戸に出て村士玉水につき、玉水没後その塾と図書を受け
継いだ。寛政年間初め、松平定信より宅地を与えられ、家塾庠麹舎を開いた。寛政十二年
(一八〇〇) 五月十一日、六十五歳で没す。

 

一〇 十時 梅崖 (とどき ばいがい) (朱子学派)

 

書簡宛名、風早那右衛門

大坂生れ。名は賜、字は子羽・業・季長、通称伴蔵、別号を顧亭・清夢軒ともいう。伊藤東所
に教えをうけ、程朱を尊崇するとともに書画に巧みで、伊勢国長島藩に仕えた。文化元年
(一八〇四) 一月二十三日 (二十五日) 七十二歳 (別に七十三とも七十五歳とも説あり)
で没す。

 

一一 皆川 淇園 (みながわ きえん) (古注学派)

 

書簡宛名、松平帯刀

東福門院御殿医皆川春洞の長男。京都生れ。名は愿、字は伯恭、通称文蔵、別号を筠斎・
有斐斎ともいう。伊藤錦里・三宅元献・大井蟻亭らについて儒学を修めたが、従来の経学
にあきたらず、努力して自説を樹立。学者・知識人との交遊も広く、晩年、平戸藩ほかの
援助をうけて京都に弘道館を建設した。文化四年 (一八〇七) 五月十六日、七十四歳で没す。

 

一二 中井 竹山 (なかい ちくざん) (朱子学派)

 

書簡宛名、宕村和平

中井甃庵の長男、中井履軒の兄。大坂生れ。名は積善、字は子慶、通称善太、別号を同関
子・滞翁・雪翁ともいう。懐徳堂で五井蘭洲に学んだ。父の死後懐徳堂院長となり、京坂
儒学界の中心的位置をしめ懐徳堂を興隆させた。文化元年 (一八〇四) 二月二日、七十五
歳で没す。

 

一三 山本 北山 (やまもと ほくざん) (折衷学派)

 

書簡宛名、加藤条右衛門

江戸生れ。名は信有、字は天禧、通称喜六、別号を奚疑翁・孝経楼主人ともいう。山崎桃
溪に句読を受ける。十五歳のとき孝経を学び、独力で四書六経を読む。私塾奚疑塾を開い
た。久保田 (秋田) 藩主、高田藩主などは北山に国事を諮問したという。亀田鵬斎らとと
もに五鬼といわれた。文化九年 (一八一二) 五月十八日、六十一歳で没す。

 

一四 柴野 栗山 (しばの りつざん) (朱子学派)

 

書簡宛名、古賀弥助

柴野平左衛門軌達の長男。讃岐国三木郡生れ。名は邦彦、字は彦輔、通称彦助、別号を古
愚軒という。後藤芝山の薫陶をうける。江戸に出て昌平黌に入学。京都に遊学、国学を高
橋宗直に学ぶ。徳島藩主蜂須賀氏の儒員となり、のち昌平黌の教官となった。文化四年
(一八〇七) 十二月朔日、七十四歳で没す。

 

一五 尾藤 二洲 (びとう じしゅう) (朱子学派)

 

書簡宛名、古賀弥助

伊予国川之江生まれ。名は孝肇、字は志尹、通称良佐、別号を約山ともいう。片山北海に学
び、頼春水・中井竹山兄弟と交わる。寛政三年昌平黌教官となる。柴野栗山・古賀精里と
ともに寛政三博士と呼ばれる。文化十年 (一ハ一三) 十二月十四日、六十九歳で没す。

 

一六 頼 春水 (らい しゅんすい) (朱子学派)

 

書簡宛名、二洲精里

頼又十郎惟清の長男。頼山陽の父。安芸国賀茂郡竹原下村生れ。名は惟完、字は千秋、通
称弥太郎、別号を霞崖・拙巣ともいう。大坂に遊学して片山北海の営む混沌社に入り学ぶ。
大坂にいるときは弟春風・杏坪を呼び寄せ学問を学ばせた。昌平黌でも学問を講じた。文
化十三年 (一八一六) 二月十九日、七十一歳で没す。

 

一七 古賀 精里 (こが せいり) (朱子学派)

 

書簡宛名、柴野栗山

佐賀藩士古賀忠能の子。名は撲、字は淳風、通称弥助。別号を穀堂ともいう。京都に遊学
して、福井小車に栄子学を、西住成斎に闇斎学を学ぶ。大坂に開塾して尾藤二洲・頼春水
らと親しく交わる。鍋島藩主治茂に仕え藩校弘道館の設立とともに教授となる。寛政八年
に昌平黌官となる。柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政三博士といわれた。文化十四年
(一八一七) 五月四日、六十八歳で没す。

 

一八 大田 南畝 (おおた なんぽ) (古文辞学派)

 

書簡宛名、鈴木白藤

大田正智の子。江戸牛込生れ。名は覃、字は子耜、通称直次郎、晩年七左衛門。南畝は号、
狂号を四方赤良・蜀山人など。十五歳で内山賀邸に入門、次いで松崎観海に学ぶ。詩文、
狂歌・戯作、黄表紙、狂誌にも筆を染めた文人。寛政六年湯島聖堂の学問吟味に首席で及第、
後幕府に出仕。文政六年(一八二三)、七十五歳で没す。

 

一九 立原 翠軒 (たちはら すいけん) (古注学派)

 

書簡宛名、野中三国

水戸藩軽臣立原蘭溪の子。名は万、通称甚五郎、字は伯時、別号を東里・此君堂ともいう。
徂徠学派の大内熊耳、折衷学派の細井平洲に学ぶ。天明六年彰考館総裁になる。文政六年
(一八二三) 三月十四日、八十歳で没す。

 

二〇 藤田 幽谷 (ふじた ゆうこく) (古注学派)

 

書簡宛名、益介

古衣商与右衛門の次男。常陸国水戸に生れる。名は一正、通称熊之介、のち与介さらに次
郎左衛門、字は子定。立原翠軒に学んで才能を認められ、その推挙により彰考館に入り、
正式に館員となる。のちには総裁となる。水戸藩天保の改革の農村対策に与えた影響は大
きい。子の藤田東湖をはじめ、会沢正志斎・豊田天功らの門人は水戸学の尊王攘夷思想を
全国的にひろめる活躍をした。文政九年 (一八二六) 十二月一日、五十三歳で没す。

 

二一 藤田 東湖 (ふじた とうこ) (古注学派)

 

書簡宛名、主税

藤田幽谷の次男。常陸国水戸生れ。名は彪、幼名は武次郎、通称虎之介、のちに誠之進、
字は斌郷。文政二年頃、江戸に出て文武を学ぶ。熱烈な尊王攘夷論により名声は全国に広
まり、橋本左内・横井小楠・西郷隆盛らと交遊し大きな影響を与えた。安政大地震のため
江戸小石川の藩邸で圧死した。安政二年 (一八五五) 十二月二日、五十歳で没す。

 

二二 若槻 幾斎 (わかつき いくさい) (朱子学派)

 

自筆書簡

京師の人。名は敬、字は子寅。もと京師角倉氏の属吏であった。後に辞して儒師となる。
文政九年 (一八二六) 十一月二十六日、八十三歳で没す。

 

二三 亀田 鵬斎 (かめだ ほうさい) (折衷学派)

 

自筆書簡

江戸馬喰町長門屋の番頭万右衛門の子。名は長興、字は穉龍、通称文左衛門、別号を善身
堂主人ともいう。書を三井親和に、儒学を井上金峨に学ぶ。二十余歳で塾を開き、経書を
講じ、書画を売り酒にひたりつつ多くの詩文を作った。文政九年 (一八二六) 三月九日、
七十五歳で没す。

 

二四 菅 茶山 (かん さざん) (朱子学派)

 

書簡宛名、矢島

菅波久助の子。備後国安那郡神辺生れ。名は晋帥、字は礼卿、通称太仲。明和三年上洛し
て、那波魯堂に儒学を学ぶ。神辺と京坂を往復して、大坂混沌社の人々など儒学者・詩人
と交わる。天明年間に神辺に私塾 (廉塾) を開く。その住居を黄葉夕陽村舎という。山陽
道を往復する儒者・詩人で茶山を訪ねないものはないと言われるほど詩文興隆の一中心の
観を呈した。文政十年 (一八二七) 八月十三日、八十歳で没す。

 

ニ五 太田 全斎 (おおた ぜんさい)

 

書簡宛名、佐作

福山藩士。名は方、字は叔亀、通称八郎。音韻の学に長じていた。福山藩に仕え年寄格に
進む。文政十二年 (一八二九) 六月十二日、七十一歳で没す。

 

二六 広瀬 蒙斎 (ひろせ もうさい) (朱子学派)

 

書簡宛名、伊藤東里

白河生れ。各は政典、字は以寧、通称仲謨、台八。昌平黌に学ぶ。白河藩校の教官となる。
文政十二年 (一八二九) 二月十日、六十二歳で没す。

 

二七 柴野 碧海 (しばの へきかい) (朱子学派)

 

書簡宛名、小寺

柴野栗山の弟の貞穀の次男。讃岐国三木郡牟礼生れ。名は允弁、字は応登・東霞、通称平
八郎、碧海は号である。貞穀の子三人は栗山に養れ、そのうち次男碧海が家督を相続。詩
文にすぐれ阿波国徳島藩に仕える。天保六年 (一八三五) 七月十六日、六十三歳で没す。

 

二八 長野 豊山(ながの ほうざん) (朱子学派)

 

書簡宛名、高川泰助

伊豫の生れ。名は確、字は孟確、通称友太郎、豊山は号である。経史を中井竹山に学ぶ。
二十四歳で昌平黌に入り、尾藤二洲に従学する。文化十二年、神戸本多侯に仕える。天保
八年 (一八三七) 八月二十二日、五十五歳で没す。

 

二九 松崎 慊堂 (まつざき こうどう) (朱子学・古注学派)

 

書簡宛名、服部伝蔵

恵法の子。肥後国益城郡木倉村生れ。名は密、または復、字は退蔵・明復、別号益城、諡
号を五経先生という。寛政二年昌平黌に入り、のち林述斎の家塾で佐藤一斎らと学ぶ。掛
川藩校教授。江戸目黒の羽沢の石経山房 (木倉山房) に隠退し塾生の教育、諸侯への講説
にあたり、狩谷棭斎ら町人学者と交友する。弘化元年 (一八四四) 四月二十一日、七十四
歳で没す。

 

三〇 朝川 善庵 (あさかわ ぜんあん) (折衷学派)

 

書簡宛名、東原

片山兼山の子。江戸生れ。名は鼎、字は五鼎、別号を学古塾ともいう。山本北山に折衷学
を学び、寛政十年から九州各地を遊歴。江戸に塾を設けた。平戸藩に仕える。嘉永二年 (一
八四九) 二月七日、六十九歳で没す。

 

三一 坂井 虎山 (さかい こざん) (朱子学派)

 

書簡宛名、古賀

安芸国広島藩儒坂井東派の子。名は華、字は公実、通称百太郎、諡は文成先生。父の東派
や頼春水に学び、藩学教授となる。頼山陽没後、史論・文章の才で関西第一と称された。
江戸藩邸滞在中は松崎慊堂、佐藤一斎らと親交があった。嘉永三年 (一八五〇) 九月六日、
五十三歳で没す。

 

三二 篠崎 小竹 (しのざき しょうちく) (朱子学派)

 

書簡宛名、古賀

医者加藤吉翁の次男。大坂の篠崎三島の養子。豊後国速見郡八坂村生れ。名は弼、字は承弼、通
称長左衛門、別号を畏堂・南豊・退庵ともいう。篠崎三島に古文辞学を、のち尾藤二洲・古賀精
里に学ぶ。仕官を好まず、家塾をつぎ諸生を指導した。頼山陽・田能村竹田ら京坂の多くの文人
と交渉があり、京坂文化社会を形成した。嘉永四年 (一八五一) 五月八日、七十一歳で没す。

 

三三 斎藤 竹堂 (さいとう ちくどう) (朱子学派)

 

書簡宛名、古賀

斎藤総右衛門の子。陸奥国遠田郡沼辺生れ。名は馨、字は子徳、通称順治、竹堂は号であ
る。仙台で大槻平泉に学び、江戸では増島蘭園に入門、また昌平黌でも学んだ。仙台藩で
は儒員に抜擢しようとしたが病没。嘉永五年 (一八五二) 二月十一日、三十八歳で没す。

 

三四 菊地 五山 (きくち ござん) (朱子学派)

 

書簡宛名、蜀山人

讃岐国高松生れ。名は桐孫、通称佐太夫、字は無絃、別号を娯庵・小釣舎ともいう。江戸
に出て後藤芝山・柴野栗山・市河寛斎の門で儒学を学ぶ。画の谷文晁・書の亀田鵬斎とと
もに芸苑の三絶と称された。嘉永六年 (一八五三) 六月十七日、八十四歳で没す。

 

三五 角田 九華 (かくた きゅうか) (朱子学派)

 

書簡宛名、山内香雪

大坂生れ。角田東水に養われその姓をつぐ。名は簡、字は大可、通称廉夫・才次郎、九華
山房と号した。脇蘭室・中井竹山に学ぶ。豊後岡藩に仕える。安政二年 (一八五五) 十二
月二十八日、七十二歳で没す。

 

三六 梁川 星巌 (やながわ せいがん) (折衷学派)

 

書簡宛名、和泉屋源兵衛 二通

美濃生れ。名は孟緯、初名善之丞、長澄、卯、字は伯兎・公図、別字を無象、通称新十郎、
別号を百峰・天谷・老龍庵・詩禅・#和尚ともいう。江戸に出て山本北山に学び、また如
亭・詩仏・五山ら江湖社詩人らと交わる。諸国を漫遊し、江戸に出、神田に玉池吟社を組
織。安政の大獄の逮捕の手がのびる直前、流行していたコレラで没した。安政五年 (一八
五八) 九月二日、七十歳で没す。

 

三七 板倉 節山 (いたくら せつざん) (朱子学派)

 

自筆書簡

安中藩主である。名は勝明、字は子赫、幼字は鶴五郎、又百助ともいう。別号に甘雨亭と
もいう。林檉宇、古賀侗庵に学ぶ。安政四年 (一八五七) 四月十日、四十九歳で没す。

 

三八 昌谷 精溪 (しょうや せいけい) (朱子学派)

 

書簡宛名、山内

備中生れ。名は碩、字は子儼、通称は五郎、別号を莫知其斎・無二三道人・寄々園主人と
もいう。昌平黌に学ぶ。津山藩に仕える。安政五年 (一八五八) 八月二十七日、六十七歳
で没す。

 

三九 野田 笛浦 (のだ てきほ) (朱子学派)

 

書簡宛名、松浦

丹後生れ。名は逸、字は子明、通称希一。古賀精里に学び、文章をよくした。斎藤拙堂・
篠崎小竹・坂井喜山とともに文章四大家と称された。丹後国田辺藩に仕えた。安政六年 (一
八五九) 七月二十一日、六十一歳で没す。

 

四〇 佐藤 一斎 (さとう いっさい) (朱子学派)

 

書簡宛名、古賀

美濃国岩村藩重臣佐藤文永の次男。江戸生れ。名は担、幼名幾久蔵、初名信行、字は大道、
通称捨蔵、別号を愛日楼・老吾軒ともいう。大坂に行き中井竹山に学び、のち京都に移っ
て皆川湛園に学ぶ。昌平黌に入学、後教授となり幕府文教の実質的中心となる。門人三千
人といわれ、渡辺華山・佐久間象山・林鶴梁・大橋訥庵・安積艮斎・横井小楠らを教育し
た。安政六年 (一八五九) 八月二十四日、八十八歳で没す。

 

四一 安積 艮斎 (あさか ごんさい) (朱子学派)

 

書簡宛名、蓬庵

神官安藤親重の子。陸奥国安積郡郡山生れ。名は重信、字は思順、通称祐助、別号を見山
楼もいう。今泉徳輔に学ぶ。江戸に出て佐藤一斎の学僕となる。昌平黌で林述斎に学び、
神田駿河台に私塾見山楼を開く。万延元年 (一八六〇) 十一月二十一日、七十歳で没す。

 

四二 藤森 弘庵 (ふじもり こうあん) (朱子学派)

 

自筆書簡

藤森義正の子。江戸生れ。名は大雅、字は淳風、通称恭助、別号を天山ともいう。柴野碧
海・長野豊山・古賀毅堂、古賀恫庵らに従い学ぶ。父のあとをうけ伊予国小松藩に仕えた。
梁川星巌・頼三樹三郎、梅田雲浜らと交友、このため安政の大獄に連座し、追放処分となっ
た。文久二年 (一八六二) 二月十日、六十四歳で没す。

 

四三 広瀬 旭荘 (ひろせ きょくそう) (折衷学派)

 

書簡宛名、馬子

広瀬卓恒の子、広瀬淡窓の弟。豊後国日田の生れ。名は謙、通称謙吉、別号を秋村・梅#(ばいとん)と
もいう。亀井昭陽・樺島石梁・菅茶山らに学ぶ。天保二年兄淡窓に代って咸宜園を主宰。
文久三年 (一八六三) 八月十七日、五十七歳で没す。

 

四四 塩谷 宕陰 (しおや とういん) (朱子学派)

 

書簡宛名、山内

桃蹊之の子。江戸生れ。名は世弘、字は毅侯、通称は甲蔵、別号を九里香園・悔山、晩香
盧ともいう。十六歳で昌平黌に入る。又、松崎慊堂に従って学ぶ。浜松侯 (水野越前) に
仕える。慶応三年 (一八六七) 九月六日、五十九歳で没す。

 

四五 大槻 磐溪 (おおつき ばんけい) (朱子学派・古注学派)

 

書簡宛名、香雪

仙台藩蘭学者大槻玄沢の次男。江戸生れ。諱は清崇、通称平次、字を士広、磐溪は号であ
る。はじめ昌平黌に学んだがのち蘭学を志し長崎に遊学。大塚瑪蜂に西洋砲術を学ぶ。文
久二年仙台に移り大槻習斎のあとをついで、養賢堂学頭となる。明治十一年六月十三日、
七十八歳で没す。

 

四六 斎藤 拙堂 (さいとう せつどう) (朱子学派)

 

書簡宛名、小竹

増村作蔵の次男、江戸生れ。名は正謙、字は有終、通称徳蔵、別号を鉄研学人・辞官後拙
斎ともいう。昌平黌で古賀精里に教えを受ける。津藩に仕える。歴史・文章にも秀で、治
世救民の学にも注意を払い、種痘館設置などに尽力した。慶応三年 (一八六七) 七月十五
日、六十九歳で没す。

 

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